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本牧ブルース
5、森田の告白

第一章

ブラックメール

Scene6)「ブラックメール」1946年11月3日(日)


雪枝が南青山の自宅を出たのは午後四時過ぎだった。白金の両親の家までは車で三十分くらいの距離だ。雪枝の運転するクリーム色のシボレーは青山通りから霞町に向かった。日曜日のせいか車の数はまばらだ。
いったい何の話だろう…父から電話があったのは一昨日のこと。何やら深刻な口ぶりで、理由を聞いても「とにかく会って話そう」の一点張り。雪枝も仕方なく会いに行くことにしたのだった。
雪枝は両親と会うのは嫌ではなかったが、最近は何かと小言が多く疎遠になっていた。雪枝の父は京都の公家の出だったが、京大法学部を卒業後、貿易商社に勤務しアメリカ暮らしも長かったせいか、様々な面で鷹揚なところがあった。一方、長州・萩の由緒ある武家出身の母は頑固なだけでなく相変わらず一人娘の雪枝には厳しかった。子供の頃のように物差しで打たれることはなくなったものの、会うたびに辛辣な言葉を浴びせて来た。それは雪枝の服の趣味や髪形、化粧などから始まって、雪枝がいつまでも結婚しないことに対する批判で終わるのだった。今は別々に住んでいるから良いものの、あの母とはとても一緒に住めたものではない。
国道から狭い裏道に入ると雪枝は公園の脇に車を止め、両親の家まで百メートルほどの距離を歩いた。キャメル色の大きなバッグにはヘンリーから預かったクッキーの缶と父の好きなスコッチ「オールドパー」が入っている。「ご両親によろしく」とヘンリーは言っていたが、その言葉を両親に伝えるつもりはなかった。雪枝が既婚者の米軍将校と交際していることを親戚たちがどんな目で見ているか、また、そのことで両親がどんなに肩身の狭い思いをしているか、痛いほどわかっていたからだ。特に父の親族は旧華族階級に属していたため、戦後その特権を剥奪され、困窮している者も少なくなかった。雪枝がGHQ所属の米軍将校と遊び、シボレーを乗り回す姿を見てどんな感情を抱いているか、それは雪枝にもわかっていた。「特権を失ったって?そんなの自業自得よ。馬鹿な戦争を始めた自分たちが悪いんじゃない」と雪枝は内心思っていた。しかし、それを表に出すほど浅はかではなかった。
海老茶色に塗られた門をくぐると、きれいに手入れされた前庭が見えた。呼び鈴を鳴らしたが返事がない。
「入るわよ」
雪枝は大きな声で言いながら扉を開け家の中に入った。居間からラジオの音が聞こえる。
「♪リンゴはなんにも知らないけれど♪」
今年になって大流行している「リンゴの唄」だ。
雪枝はこの歌が特別好きではなかったが、最近の歌は呑気でいいと思っている。とにかく「軍歌」だけはもう勘弁だった。
「お父様、お土産があるわよ」
居間に入るとテーブルの上に置かれた新聞が目に入った。「けふぞ平和国家進発の日」「日本国憲法公布」と大きな見出しが躍っている。雪枝は新聞の大見出しも嫌いだった。戦時の勇ましい見出しの数々の記憶…自分たちが国に騙されていたことが改めて思い出され苦々しい感情でいっぱいになる。
「でも、この新しい憲法は良さそうね」
雪枝はこの新憲法制定の裏にヘンリー達GHQ民生局の苦労があったのを知っていた。
「ベイビーが誕生するのを待っている気分だよ」
ヘンリーはこの日本国憲法公布の日を心待ちにしていた。
「雪枝かい?」
父の声がした。軍手をして鋏を持っている。庭木の手入れをしていたらしい。
「今来たばかりよ。お母様は?」
「ああ、マサと一緒に買い物に行っているよ。もうそろそろ帰ってくると思うが」
「お父様、オールドパーがあるわよ。それとクッキーも」
「ああ、ありがたいね。後でいただくとしよう」
「それで、話って何なの?」
「うん、さっそくだがこれを見てくれ」
父は居間の引き出しの奥から白い封筒に入った手紙のようなものを出してきた。
「何これ、英語じゃない」
「そうなんだよ。タイプで打ってある」
封筒には日本語で父の名前と住所が書いてあったが中身は英文だった。その文面を読み進むにつれ雪枝の表情は曇っていった。
「何?これはブラックメール(脅迫状)のつもり?」
雪枝は不愉快そうにその便箋を睨んだ。
内容は妻帯者であるデュボア少佐と雪枝の交際を好ましくないものと指摘し、これが表沙汰になった場合に起こり得る問題について触れていた。中でも「デュボア少佐の失脚の可能性」という言葉は雪枝に衝撃を与えた。そして、最後に雪枝の父が最近支社長に就任した件にも触れ、「せっかくの慶事」を娘の親不孝な行為が台無しにしてしまう可能性についても触れていた。
手紙を読み終えた雪枝の手は震え、目は怒りに燃えていた。
「大丈夫かい?何か飲み物を持って来よう」
父は立ち上がり台所に入って行った。
「ただいま」
ちょうどその時、雪枝の母と女中のマサが帰って来た。
「あら、雪枝、来てるの?」
雪枝は母に動揺した様子を見せたくなかったので、あわてて洗面所に行き、鏡を覗き込んだ。父は母にはこの手紙のことは伏せていた。内容を知った時の母の反応が恐ろしかったからだ。母は以前から二人の交際には猛反対していたから、この手紙の内容を知ったら烈火のごとく怒るのは目に見えていた。
とにかく、この話は父との間の秘密にしておかなければならなかった。食事の間も雪枝の心はそこにはなかったし、母も、あえて深い話は避けているようだった。父も気を使っているのか、知人たちの消息や当たり障りのない話題ばかりを口にした。
帰りの車の中で雪枝は決意を固めていた。ヘンリーに会って何もかも話そう。別れるかどうかなどは、その先の話だった。とにかく、これは早急に対策を練らなければならない。雪枝のバッグの中には父から受け取ったブラックメールが入っていた。どの筋から来たものか大体の推測はできたが、後はヘンリーに調査を任せよう。とにかく帰ったら電話をしよう。雪枝は不安な気持ちを抱えながらも、一方では興奮している自分に気づいていた。まるで自分がヒッチコックの映画の主人公になったような…そんな気分になっていたからだ。
「卑劣な奴らを叩き潰してやる」
雪枝はハンドルを握る手に一段と力を込めアクセルを踏み込んだ。



7、東京ローズ


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