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本牧ブルース
12、うごめく影

第一章

13、運命の輪

13)「運命の輪」 1946年11月21日(木)〜30日(土)

二時間後、ディックはポートホールの前のベンチにぐったりと座っていた。時刻は夜中の12時近くになっていた。思いつく場所は全て見て歩いた。港も路地裏も公園も。電話も心当たりのある番号には全てダイヤルしてみた。もっとも時間が遅いので応答がなかった相手も少なくなかったが。森田が米軍基地内に連れて行かれた可能性もあったが、勝手に捜索することは不可能だし、MPも彼らの一味だった場合かえって森田の身を危険にさらすことになりかねない。ディックは今日の捜索を諦めようとしていた。
「あとは明日の朝一番でチーフの姉のところに連絡してみよう」
森田の姉は川崎の方に住んでいると聞いている。意外と森田は無事に姉のところに帰っているかも知れなかった。

突然クラクションが鳴り、ヘンリーのワインレッドのフォードが走り込んできた。助手席から手を振っているのは森田だ。
「おお!チーフ!生きてたか!」
森田は車から降りるとディックに駆け寄った。ディックもベンチから立ち上がると走って近づいた。そして森田の顔を見るとギョッとしたように立ち止まった。
「なんだ!チーフ、怪我をしているじゃないか…それにその…臭いは!」
森田の顔も服も泥だらけで額には血の跡があった。そして、身体中から立ち上る臭いはまさしく汚物そのものだった。
「どうしたんだ、いったい!」
ヘンリーとマケイン少尉も車から降りると口々に話し始めた。
「チーフが一人で国道を歩いていたんだよ」
「最初は誰だか分らなかったが、追い越して顔を見たらチーフだったんだ」
「で、いったい何があったんだ?」
「いろいろ質問したんだが、何しろ我々の日本語じゃ役に立たなくて…」
「それは俺も同じようなもんだ。困ったな…」
ディックも頭を抱えた。
するとチーフは「ペーパーアンドペン」と言って何かを書く仕草をした。
「そうか!図に描いて説明しようということか」
「じゃあ、店の中で話を聞こうか」
四人はポートホールの中に入って行った。
「まあ、チーフも大した怪我はないようだから、まずは祝杯を挙げよう」
幸い倉庫にビールも残っていたのでみんなで乾杯し、森田の話を聞くことになった。
「ちょっとぬるいけど勘弁してくれ!カンパイ!」
森田の話を大まかにまとめるとこのような内容だった。
本牧警察で釈放された森田は「ファーガソン弁護士の代理」を名乗る日系人の男と本牧署から出た。そして、駐車場にとまっている黒い車の後部座席に乗り込むと男が一人座っていた。それは上海駐在だった陸軍の山路中佐…いや現在はケーシー・ヤマダと名乗る男だった。髭を生やして髪もやや薄くなっていたが、眼光鋭い細い目と酷薄そうな口元は変わっていなかった。彼は「森田君、釈放おめでとう。少し聞きたいことがあるので場所を変えようか」と言ったきり黙っていた。森田は身の危険を感じたので、走行中ずっと逃げるチャンスをうかがっていた。車は米軍基地の方に向かっていた。トンネルの手前のカーブで車がスピードを落とした時、森田はドアを開けると車外に転げ出た。そこは畑の用水路の側だったので用水路の中を走って逃げ、途中の畑の奥の肥溜めに身を潜めた。幸い肥やしは浅かったので汚物に浸かったのは下半身だけだったが、それでもその臭気と冷たさで気が遠くなりそうだった。男たちはしばらくの間、懐中電灯を持って探し回っていたが一時間ほどすると諦めて去って行ったので、肥溜めから這い出しあぜ道を通り、国道に出て歩いていたらヘンリー達に出会えたというわけだ。
「じゃあ、その傷は車から落ちた時にできたんだね?」
ディックが尋ねると森田は額に手を当て頷きながら言った。
「イェス!フロムカー、アイ、ダウン。イタイイタイ」と。
「とにかく、そのくらいの怪我で済んで良かった。それにしても、そのハニー・ポットの臭いは一生忘れられないだろうな」
「本当に強烈だな。奴らもまさか肥溜めに潜んでいるとは考えなかったようだ。しかし、これで諦めるとは思えないな。おそらくチーフを消そうとして連れて行ったのだろうから」
ヘンリーはビールをグッと飲み干すと言った。
「どうやら東京ローズを消したのも奴ららしいんだ。自分たちに都合が悪い者は容赦なく消す主義のようだ」
ディックは顔を曇らせた。
「他にも消された者が何人もいるかも知れないな…」
「うむ、日本の警察もまだ弱体で捜査体制は整っていないからな。奴らはやりたい放題だ」
「G2の奴らがMPも抱き込んでいるとしたら、どんな事件も揉み消してしまうだろうな」
「それは大いにありえる」
ヘンリーが天井を見上げながら悔しそうな表情でつぶやいた。
「とにかくチーフをどこか安全なところに隠さないと」
ディックが言うとヘンリーも頷いてテーブルを叩いた。
「よし!何とかしよう」
******************************
「で、チーフはどうなったの?」
雪枝はヘンリーに尋ねた。
ここは銀座のすずらん通りにある小さなバーだ。雪枝の父の友人が経営者なのでこの店なら誰にも見られず安心だった。おそらく知らない人間には、ここがバーであることすらわからないはずだ。白木の表札に「氷川」と書いてあるだけなのだから。BGMのバッハの旋律と品の良い初老のバーテンダーがシェイカーを振る音が心地良く店内に響いていた。
「うん、チーフは今頃北海道のホテルの厨房で働いているよ。もちろん名前も変えてね」
「北海道?またずいぶん遠くに行ったのね」
「そう、僕の大学時代の友人が函館でホテルを経営しているので頼み込んだんだ」
「え?その人はアメリカ人なの?」
「いや、日本人だ。彼は留学生としてボストンに来ていたんだよ。戦争中は満州で苦労したらしいがね、チーフも満州にいたそうだから色々と話が合うんじゃないかな」
「それは良かったわね。北海道ならG2の手も伸びていないでしょう?」
「いや、札幌にはCCDの支部がある。まあ、今は対ソ連の諜報活動で躍起になっているだろうから心配ないが、一応チーフには当分の間、厨房と寮の間を行き来する以外は外に出ないように言ってあるから大丈夫だろう」
「それで…ディックは?お店はどうなるの?」
「うん、今、改装中だ。今度は本格的なイタリアン・レストランにするそうだ。もう兵隊たちのバカ騒ぎに付き合うのは飽きたとか言ってたよ」
「それは良かったわね。あそこのピザがまた食べたいわ」
クリスマスまでにはオープンできるらしい。僕も楽しみだよ」
「ヘンリー!一緒に過ごせるのね?今年のクリスマス
「ああ、そのつもりだ。国に帰るのは年が明けてからにした」
「うれしい!プレゼントは何がいい?」
「ああ…まだ考えていない。それよりYukiは何が欲しい?」
「そうね、まずディックのお店に予約を入れておいて」
「きっと彼も喜ぶよ。予約第一号だ!」
雪枝は目を閉じ、バッハのチェンバロのメロディーを追った。本当に流転の半年だった。いや、もっと遡ればアメリカから帰国してからの七年間、明日をも知れない日々だった。いや、もう過去を振り返るのはよそう。あの晩ディックに告白されたことはヘンリーには黙っていた。あれからディックには会っていないし、もしかしたらあの日の彼は普通の精神状態ではなかったのかも知れない。自分の店の従業員が人を殺したのだから誰でも動揺するだろう。あるいは…また何か連絡があれば、その時考えれば良い。先のことなどわからないのだ。
「今が幸せならそれでいい…」
雪枝はヘンリーのたくましい手を握った。そして、バーテンダーがシェイカーからマティーニをグラスに注ぐのをジッと見ていた。


1、新橋


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