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13、運命の輪

第二章

1、「新橋」

 
本牧ブルース」Season 2
  第二章

 1)「新橋」1947年1月31日(金)

 小雪がちらつく夕暮れ、雪枝は新橋のガード下を歩いていた。役所に書類を届けに行った帰り、国電に乗ろうと駅まで来たところだった。ガード下から抜ける駅の反対側はいわゆる「闇市」に連なる一帯で、怪しい酒を出す飲み屋の屋台が並び焼き鳥のような香ばしい匂いが漂っていた。雪枝はその匂いを嗅いでおいしそうだとは思ったが、そのような場所で飲む気にはならなかった。その肉が何の肉だかも怪しかったし、酔っ払いにからまれてどんな嫌な思いをするかわからないからだ。切符を買おうと駅舎の中に入った時だった。人混みの中に懐かしい顔を見つけた。
「あ‥おねま?」
思わず声をかけたが、その女性は駅舎から外に向かって足早に出て行ってしまった。雪枝は迷わずその後を追いかけた。そしてガード下でようやく追いつくと後ろから大声で呼びかけた。
「おねま!おねまでしょ?」
「え?」
その女性は振り返ると目を大きく見開いた。
「あっ!ユキちゃん!」
「そうよ。雪枝よ。おねま!久しぶり!」
その「おねま」と呼ばれた女性は年の頃は30代半ばだろうか。襟元に毛皮のついた高級そうな黒いコートを着ていた。濃いアイシャドウ、真っ赤な口紅…どう見ても水商売風にしか見えない。
「ユキちゃん、あなた時間ある?良かったら一緒に食事でもどう?私、7時からお店なんだけど、その前に何か食べておこうと思って」
「わあ!おねま‥久しぶりに会えてうれしい!いっぱい話したいことがあるのよ」
雪枝は嬉しさを隠しきれない様子でおねまの手をとった。
「じゃあ、この近くに支那料理のお店があるのよ。どう?」
「もちろんいいわよ。行きましょう!」
二人は姉妹のように手を組んで歩き始めた。
その店は大通りから裏通りに入り、さらにちょっと奥まったところにあった。「青龍軒」という青い文字の大きな看板がかかっている。けっして高級とは言えない店だったが、不潔な感じではなかった。
「ここの酢豚がおいしいのよ。ああ、それとおそばもおいしいわよ。今日は私が奢るから何でも食べて」
店に入るとおねまは若い女性の店員に「いつもの席ね」と言って左奥のテーブル席に座った。そして、その店員に尋ねた。
「今日は陳さんは?」
「はい、陳さん奥います。料理してます」
彼女は厨房の方を指さして言った。
「そう、じゃあ後で顔を出すように言ってね。私の妹分を連れて来たって伝えて。それと‥ビールをお願い。グラスは…ユキちゃんも飲むでしょ?二つね」
料理はどれも美味しかった。雪枝は久しぶりにおねまに会えた嬉しさに興奮して積もる話に夢中になった。

「おねま」は雪枝の父の兄の嫁だった。一応「伯母」になるのだが、雪枝とは七つしか年が違わなかったので姉のように慕い「お姉さま」と呼んでいたのがいつの間にか「おねま」になったのだ。本名は菊子と言う。
父の兄は今はもう還暦近かったが十年前に妻を亡くし六年前に菊子と再婚したのだった。菊子も旧華族の出身だったが雪枝の実家とは桁違いの資産家だった。雪枝の家は京都の公家だったが菊子の実家は北陸の大名家で、明治維新後、版籍奉還と引き換えに侯爵の身分を与えられたのだった。
しかし、人生はどう転がるかわからない。結婚後しばらくして菊子はお抱えの運転手と恋仲になり、ついに駆け落ちしてしまったのだ。その後戦争が激しくなったため、菊子の消息はわからなくなってしまった。そして今日、三年ぶりに雪枝と再会したのだった。
「で、おねま、今、どうしてるの?」
雪枝は単刀直入に聞いた。こんな時、アメリカ育ちは躊躇しない。
「え?今は…この近くで小さなバーをやってるのよ。良かったら後で寄って行って」
「じゃあ、あの‥何でしたっけ…運転手の…」
「藤田ね。あの男とは別れたわ。一年前に」
雪枝はまずいことを聞いてしまったと思って、思わずビールをグッとあおった。
「大丈夫よ、ユキちゃん、私、あの男には全然未練はないの。むしろ感謝しているくらいよ。だって、あのくだらない世界から私を連れ出してくれたんですもの」
「え?くだらない世界?」
「そうよ、これはあなただから言うけど、身分だの家柄だの、私は子供の頃から息が詰まりそうだった。それに、そう言っては何だけど、あなたの叔父様、本当につまらない人だったわ。あの方と別れて、私、今は『本当の自分』を生きている気がするのよ」
雪枝はおねまが「つまらない」と言った意味がすぐにわかった。伯父の趣味は読書と囲碁。外出と言えば時々相撲や歌舞伎を見に行く程度で、とても女性を楽しませるようなタイプではなかったからだ。雪枝の父の方が海外生活が長い分ずっと遊び慣れていた。
しかし、雪枝が驚いたのはおねまの変貌ぶりだった。化粧が濃くなっただけではない。以前雪枝が知っていたおねまは全てに控え目で伯父の陰に隠れているような地味な印象だったが、今は大輪のバラの花のように輝いていた。言葉だけではなく確かに「本当の自分」を生きているのだろう。
「それより、ユキちゃんの噂、聞いたわよ」
おねまは急に身を乗り出すとジッと雪枝の目を見た。
「え!私の噂?どんな?」
「アメリカさん達を手玉に取ってるって」
「え?いやだ!どういうこと?」
雪枝は驚くと同時に世間の狭いのを感じていた。
「ユキちゃんがGHQのお偉いさんたちと堂々と渡り合ってるって聞いたわよ」
「Oh My…誰がそんなことを!」
雪枝は思わず大きな声をあげた。
「ユキちゃん、実を言うと私は誇らしかったわ…日本の女として。しかもあなたは親戚なんだから…乾杯!」
おねまはグラスを軽く掲げるとビールをグッと飲んだ。
雪枝もけっして不快な気分ではなかったが、噂の出所が知りたかったのでもう一度尋ねた。
「で‥一体誰なの?その噂話の出所は?」
「ああ、ウチに良く来るお客さんよ。ある会社の社長さんだけどね、情報通なのよ」
「ふうん、じゃあ今度聞いといてね。誰から聞いたのか」
「わかったわ。ユキちゃん、ごめんなさい。私そろそろ行かないと。お店に寄ってく?」
「今日はよしておくわ。明日も早いし」
「そう、じゃあまた会いましょう。今度はもっとゆっくりね。これお店のマッチ。渡しとくわ」
そのマッチには黒地に紫色の文字で「鹿鳴館」と書かれていた。文字の赤い縁取りが艶めかしい。
「え?鹿鳴館?これがお店の名前なの?」
「そうよ。いい名前でしょう。ふふふ」
おねまは得意げな笑いを浮かべた。
金曜日でしかも月末のせいか青龍軒の店内は満員になっていた。米兵と日本人女性のカップルも何組か来ている。中華料理はアメリカ人にも日本人にも好まれる丁度良い料理なのだ。
「じゃあ、おねま、また会いましょう」
「ユキちゃん、今日は楽しかったわ。今度絶対お店に来てね」
雪枝は新橋の雑踏の中に消えて行くおねまの後姿をジッと見送っていた。


2、I.K(アイ・ケー)


XOOPS Cube PROJECT