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1、新橋

第二章

2、I.K(アイケー)

 2)I.K(アイ・ケー)」1947年2月10日(月)

 ディックはレジの後ろに立ち店内を見回した。
「あと四組か。今日もよく入ったな…」
「ポートホール」を改装し店名を「イタリアン・キッチン:略称I.K」と変えてまだ二カ月しか経っていないが売り上げは順調だった。以前は米兵たちの溜まり場的な…まあ、どちらかと言えば「品のない」店だったが、今はレストランとしてまともに評価されるようになって来ているおかげでカップルの客も増え、特に週末は予約でいっぱいだった。キャンドルライトに赤いチェックのテーブルクロスがゆらゆらと…ロマンチックな雰囲気を醸し出している。
「ディックさん、ラストオーダー、お願いします」
チーフの森田がキッチンの小窓から顔を出した。

森田は先月末、北海道から戻って来たばかりだった。昨年12月のオープン時は、ディックが雇ったイタリア人チーフのトニーがいたのだが、あまりの素行の悪さにディックも堪忍袋の緒が切れ、ひと月足らずでクビにしたのだった。トニーはもともと客船の厨房で経験を積んでいたので料理の腕は良かったのだが、店の女性スタッフや女性客を次々と口説くので困った挙句、苦渋の選択をしたのだ。しかし、チーフ抜きでは店が成り立たない。困り果てたディックは函館に飛び、森田を口説き落としたのだった…と言うよりも森田にとっても渡りに船だったに違いない。
「こっちは寒くて参っちまいますよ」
森田は開口一番ディックにこぼした。生まれも育ちも東京の森田にとって北海道の寒さはかなりこたえたようだ。函館のホテルの厨房は待遇こそ不満はなかったものの、仕事場と寮の往復で、ほぼ隠遁生活だったのだから仕方がないが…森田にとってもストレスの溜まる生活だったに違いない。それでも「殺人犯」として刑務所に入れられる苦痛に比べればどれだけマシだったかわからないが。

「コンコン!」
キッチンの裏口がノックされ、ディックがドアを開けると二人の男が大きな木箱を抱えて立っていた。
「やあ、ディック。今晩は冷えるね。もうひと箱あるからちょっと待っててくれ」
男たちは濃紺のキャップを目深にかぶり黒い革ジャンの襟を立てていた。
荷物が運び込まれるとディックは二人のうちの背の高いブロンドの男に封筒を渡した。
「じゃあ、トミー、一応中身を確かめてくれ」
トミーと呼ばれた男は封筒の中の札束を数えると頷き裏口から出て行った。
ディックは木箱の蓋を開けると中を見た。ジン、バーボン、スコッチ、ウォッカなどのボトルがぎっしりと詰まっている。
後ろから酒好きの森田が覗き込んで声をあげた。
「ディックさん、こりゃあ凄いや。今時こんなにいろんな種類の酒は絶対に我々の手には届きませんよ。PXですか?」
「チーフ、これヒミツ…シーッ!PXね」
ディックは人差し指を口に当てて言った。
「やっぱりね。アメリカさんは何でもあるからね。しかも安いと来てる!」
「ディックさん、レジを締めますよ」
先月から雇っているウェイトレス兼レジ係りの安代がキッチンに入って来た。
「ああ、ヤスヨ、今行くから待っててくれ」
ディックは英語で答えるとチーフにジョニー・ウォーカーを一本手渡して言った。
「チーフ、これスペシャルね。だからシーッ!」
ディックは再び人差し指を口に当てながらウィンクした。

ディックが横浜で店をオープンするにあたって一番悩んだのは酒の仕入れだった。ウィスキー、ジン、ウォッカ、ブランデーなど当時の日本の市場ではとても手に入らないか、たまにあっても目玉が飛び出しそうな値段だった。困っていたそんな時、米軍のPX担当の将校を紹介されたのだった。PXとは米軍専用の購買部のことで米軍人と軍属しか利用できないのだが、アメリカ国内と同様の品物がそろっており、当時、一般の日本人にとってはあこがれの場所だった。ディックも一応IDがあるので普段の買い物は可能だったが、業務用の仕入れるとなるとそう簡単ではなかった。しかし、どこにでも抜け道はあるもので「裏PX」は存在していた。電話でオーダーすれば配送までしてくれるのだ。もちろん違法行為なのでこっそりやるしかないのだが、この仕入れルートはディックの店の生命線だった。

「じゃ、ディックさん、お先に」
「ああ、チーフ、オツカレサマ」
チーフの森田はディックにもらったジョニー・ウォーカーの瓶をタオルで包み大事そうにバッグに入れると裏口から出た。
函館から戻ってから森田は一時的に川崎の姉の家に身を寄せていた。川崎の駅で電車を降り線路沿いに多摩川の方に向かって歩いて行くと、バラック作りの飲み屋が何軒か並んでいた。
「ちょっと一杯ひっかけて行くか…」
森田は酒好きだった。飲むとついつい深酒をしてしまう。しかし、今日は一杯で止めておこう。せっかく高級スコッチをもらったのだから安酒で酔っ払うことはない。イッパイ飲んでちょっと気分を変えるだけで充分だった。
森田は三軒並んでいる中の一番右の…比較的小奇麗な店に入った。黒い猫の絵のとなりに「バー黒猫」という看板がかかっている。
「いらっしゃい!」
色黒のちょっと彫りの深い顔立ちの店主が声をかけた。
「何にしますか?旦那」
「ああ、焼酎を一杯」
ロックグラスに八分目ほど注がれたその透明の液体は、ツンと鼻を突くアルコール臭と同時に微かに果物の腐ったような臭いがした。森田はこんなところで安酒を飲まずに、さっさと帰って高級スコッチを飲めば良かったと内心後悔した。
改めて店内を見回すと、薄暗いカウンターの奥には男が三人、何やらヒソヒソと話しているのが見えた。その内の一人と森田は目が合ったがあまり人相も良くない相手なのですぐに目を伏せた。入り口近くのテーブル席にはいかにも水商売風の女と黒いコートの男が座っていた。男は後ろ向きに座っていたので顔は見えなかったが、オールバックの髪をポマードでテカテカと光らせ、左手にグラスを持ち右手は女の手を握っていた。店内にはジャズが低い音でかかっている。ベニー・グッドマンだ。森田は音楽には疎い方だったが、それがいつも職場でかかっている曲であることに気付いた。
「音楽の趣味がいいね」
森田はカウンター越しに店主に声をかけた。
「え?旦那もジャズ好きなんですか?実は進駐軍に知り合いがいて、お古のレコードがもらえるんですよ。時々傷が入ってますけどね」
確かに時々バチっと音が飛ぶ。
「まあ、でも戦時中には考えられないねぇ。ジャズを聴きながら酒を飲むなんて。平和が一番だね」
森田が言うと店主も笑顔で頷いた。
その時、奥の三人の男たちの一人が森田に向かって唸るような声で言った。
「何?平和がいいだと?日本が負けて良かったというのか?進駐軍の音楽なんか聞いて魂が腐ったんだろう」
その男はさっき森田と目が合った人相の悪い男だった。坊主狩りで無精ひげをはやしている。森田はこんなところで喧嘩になってはまずいと思いすぐに謝った。
「いや、そんなつもりじゃ…。気に障ったら謝るよ」
すると店主もなだめに入った。
「米倉さん、今日はちょっと飲み過ぎですよ。この旦那も日本が負けて良かったなんて思うはずないじゃないですか。勘弁してあげてくださいよ」
するとその時、テーブル席の黒いコートの男が後ろを向いたまま低い声で言った。
「日本が負けて良かったんだよ。そもそもアメリカさんに勝てるはずなかったんだ。勇ましいことばかり言って、ろくすっぽ兵隊に飯も食わせないで、みんな戦う前に腹減らして死んでいったんだよ。俺はこの目でイヤになるほど見て来たんだ。酔っ払って勝手なこと抜かしてんじゃないよ」
「なっなんだと!」
その米倉という坊主狩りの男はいきなりビンタをくらったような顔で喚いた。
「こら、そのポマード野郎!こっちに来い。話をつけようじゃないか!」
すると一緒にいた二人の男たちは米倉を両側から抱えて店の外に連れ出そうとした。
「ヨネさん、今日はもう帰ろう。明日も早いんだから。もう寝た方がいいよ。さあ」
店主もケンカになってはたまらないので、一緒になって米倉をなだめた。
「米倉さん、またゆっくり飲みに来てくださいよ。今日はありがとうございました」
米倉は酔っているせいで足元も定まらずあっさりと二人の男たちに抱えられ外に連れていかれた。
「しかし、飲み屋も大変だねぇ。酔っ払い相手の商売だから…」
森田が店主に話しかけると店主も頷きながら応じた。
「あの人は元特高にいたとかで、戦争に負けたのが悔しくて仕方がないんですよ。まあ、敗戦で仕事を失くしたから恨むのも無理ないが…今はすぐそこの工場で旋盤の仕事やっているらしいですけど、昔は威張り散らしていたから、酔っ払うとたちが悪くてねぇ」
すると、ポマードべったりの男がいきなり振り向いた。
「俺たち兵隊が外地で死にそうになっている時に、ああ言う奴らは内地でたらふく食ってのうのうと生き延びてやがったんだ。『本土決戦』だの『一億玉砕』だの口先だけなんだよ。ああいう奴らは真っ先に逃げるんだ。ああ、満州でもそうだったよ」
すると森田がそのポマード男を指差して言った。
「おっお前、亀井じゃないか!亀井だろ?」
「おお!お前は森田だな?森田!生きていたのか!」
その男は上海で森田と同じ部隊にいた亀井三郎だった。二人とも上海から満州に転属し、その後、森田が沖縄に転属したため離れ離れになってしまったのだ。こんなところで再会するとは…まったく不思議な因縁としか言いようがなかった。
亀井は終戦を満州のハルビンで迎えたが、ソ連軍が侵攻してきたため満州から北支へと逃げやっとのことで貨物船に乗り込み、門司に上陸できたのは終戦から半年後だったそうだ。
積もる話に二人は夢中になりあっという間に一時間が過ぎていた。
「俺は今こいつのところで暮らしているんだ」
亀井が「こいつ」と呼んだのは横浜の米軍相手のホテルで働いている静江と言う女だった。ホテルとは名ばかりで実際は売春宿だったが稼ぎは悪くないようだった。亀井のコートも靴も彼女に買ってもらったと言っていた。しかし、森田が気にかかったのは亀井のそんな「ヒモ」のような生き方ではなく、時々共産党の集まりに加わっていることだった。亀井は「日本を徹底的に変える」と息巻いていたが、果たしてそんなことが可能だろうか。GHQが終戦後、共産党員を含む大部分の政治犯を解放したのは確かだが、日本に共産革命を起こそうとすれば、それはGHQの眼には「行き過ぎ」と映るのではないか。政治には疎い森田だったが、その位のことは想像できた。
「じゃあな、森田。また会おうな」
亀井は静江の肩を抱いて店から出て行った。寒い風が吹き込みドアがバタンと閉まった。


3、バー:鹿鳴館


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