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3、「バー:鹿鳴館」

第二章

4)「コンプトン・パケナム」1947年2月14日(金)

 4)「コンプトン・パケナム」1947年2月14日(金)

「初めまして。雪枝です。上松雪枝です」
雪枝も丁寧に握手を返した。パックの手は思いのほか柔らかく温かみがあった。
「はい、雪枝さん、あなたのことは存じ上げておりますよ」
全く淀みのない日本語だった。どのような素性の男なのだろう。
「え?パックさん、私…どこかでお会いしておりますか?」
「いいえ、実際にお会いするのは初めてですが、色々なお噂は耳に入っております」
パックは少し口を曲げた皮肉な笑いを浮かべていた。そして、その眼は獲物を射るように鋭かった。
(ああ、この人…怖い)雪枝はここに来たことを少し後悔し始めていた。
「雪枝さん、あなたは素晴らしい家柄に生まれた。そしてとても美しい…」
パックは雪枝の左隣の席に勝手に座り話し続けた。
(何を言い出すのだろう…おねまはどこ?…何とかして!)しかし、おねまは新しく入ってきた客の応対で忙しく、雪枝が困っているのに気付いていなかった。
「雪枝さん、私はジャーナリストです。つまり多くの情報源を持っています。わかりますね?」
ジワジワと獲物を追い詰めるような話し方だった。一体何を言いたいのだろう…もしかしたら?
「私から見ると、あなたは多くのチャンスに恵まれた人生を、愚かな行為で無駄にしているように見えます。アメリカ人たちと付き合うのは楽しいですか?もちろん、彼らの中にも紳士はいる。しかし、大部分の兵隊たちは?下品で野蛮で…はっきり言って、日本の文化も日本人も全く理解していない。天皇陛下に対する敬意も感じられない」
雪枝は黙って聞いていたが、「天皇陛下に対する敬意」という言葉を発した時にパックの背筋がピンと伸びたのを見て異様なものを感じた。
(この人は一体何者?いや只者ではないのはわかったけれど、何だか恐ろしい)
「あの…パックさん、私、娘時代をアメリカで過ごしましたの。ですから彼らとはとても気が合うんですの」
黙ったまま一方的に聞いているのも悔しいので、雪枝は反論を試みた。
「雪枝さん、あなたは何人ですか?日本人の誇りはありますか?」
パックは雪枝の言葉を無視するかのように畳み掛けて来た。
「誇り?日本人?パックさん、私は人間としてのプライドはあります。でもそれは日本人とかアメリカ人とかは関係ありません。『一人の人間』として…いえ『一人の女性』としてのプライドです」
雪枝はこのパックという男に次第に腹が立って来た。初対面なのにいきなりお説教…それも実に尊大な態度で。雪枝の中に潜んでいる反抗心がむくむくと頭をもたげて来た。
「ああ、実に嘆かわしい!良家の子女でさえこの有様だ。大和魂は滅びて行くのか…」
パックは大げさな身振りで髪を掻き毟った。
(ああ、いやだ。酔っ払っているのかしら)
雪枝は、もうこの男と話をするのはやめようと思い、黙って正面を向きオールドパーをチビチビと飲んだ。
「雪枝さん、あなたは重大なミステイクを犯しています」
パックは急に静かな口調で話し始めた。雪枝も無視できずに彼の方に向き直った。
「え?私が…ミステイク?どんな?」
「そうです。あなたは間違った人と付き合っている」
そうか…多分、ヘンリーのことを言っているのだろう…が、もうこれはお節介としか言えなかった。雪枝は英語でキッパリと言った。
「None of your business(あなたに関係ないでしょ)」と。日本語だと周りの客にわかってしまうだろうし、強い感情を表す時は英語の方が性に合っていた。
パックはゆっくりと首を振って言った。
「ノーノ―。あなたはわかっていない。彼は『赤』です」
「え?何ですって?」
雪枝は耳を疑った。ヘンリーが赤?つまり共産主義者?全くあり得ない話だった。これはヘンリーの名誉のために言っておかなければならない。
「パックさん、あなたは何か思い違いをしていらっしゃるようですけど、ヘンリーは絶対に赤なんかじゃありませんよ。誰がそんなことを言ったんですか?」
パックは人差し指を立てると、口に当て小さな声で言った。
「これは極秘情報ですが、GHQの中にロシアと接触している者がいるのです。特にGS(民生局)は怪しい。局長のホイットニーだけでなくケーディスについても色々な情報があります。あなたの愛するヘンリーも気付かない内に共産主義者に協力させられているのです」
耳を覆いたくなるような話だった。米軍の…それも最高司令部の中に共産主義者がいるって?
「パックさん、今はロシアではなくソビエトですよね?それに、あなたがどんな情報を持っているか知りませんけど、私は信じません。彼はごく普通のアメリカ人です。もうこれ以上お話しすることはありませんから、席にお戻りください」
雪枝は彼が先ほどまで座っていたテーブル席を指差すとパックを睨みつけた。
「お嬢さん、ロシアだろうがソビエトだろうが、奴らの考えることは同じです。今も昔も『南へ向かえ』ですよ。侵略者であることに変わりはない。私の言葉にウソはありません」
「まあ、パックさん、何のお話?ユキちゃんは私の妹分なんだから絡んじゃダメよ。あなた、今夜は飲み過ぎ!もうお家に帰ったらいかが?コートを持って来てあげるわ」
二人の様子に気付いたおねまが優しい声で諭すとパックはおとなしく従い、コートに袖を通し帽子を被ってふらつきながら出て行った。
「ごめんなさいね、ユキちゃん。パックは酔うと絡む癖があるのよ。普段はいい人なんだけどねぇ…さあ、ユキちゃん、気分を変えて飲みなおして。お店の奢りよ」
雪枝は目の前に出された三杯目のウィスキー・ソーダをグッと飲んでひと息ついた。
(今日は二回も『お嬢さん』っていわれた。駅前の酔っ払いとパック…。それにしても、ヘンリーが共産主義者?ひどい言いがかりだわ。イギリス人のクセに軍国主義者なのかしら。変な男…)
「ユキちゃん、私、パックはこのままでは済まないと思うわ。あんなに雑誌に悪く書かれたらGHQだって絶対黙ってないって」
おねまは眉間に皺を寄せて首を振った。

コンプトン・パケナムは1893年5月11日、神戸に生まれた。神戸は英国人貿易商だった彼の父の赴任地だった。伯父のウィリアム・C・パケナムは日英同盟が結ばれた後、英国駐在武官として来日していた記録があるので、パケナム家と日本との縁は浅からぬものがあると言える。パケナムは英国で教育を受けたと自称していたようだが実際は中国:煙台市のミッション系私立学校「チーフー・スクール」で英国式の教育を受けたのが真実のようだ。第一次大戦では英国陸軍機関銃部隊の一員としてフランスに出征。激戦を生き抜き戦功十字章を授与され大尉に昇進した。その後、ジャーナリストに転身し、1945年の夏、ニューズウィーク支局長として東京に赴任。有楽町にあったプレスクラブを根城にジャーナリストとして活動していた。しかし、彼には奇妙な噂もあった。毎日、二重橋の前で天皇に祈りを捧げていると言うのだ。GSのホイットニー局長が実際に何度も見たというのだから、事実なのだろう。しかし、実際のところパケナムは思想的にはリベラルなGSよりもG2に近く…要するに「反共主義者」であった。つまり、彼が書いたニューズウィークの記事もG2に近い視点から書かれたものだということだ。

「パックさんって、おねまにとっては大事なお客様かも知れないけど、私は苦手なタイプね。家族はいるのかしら」
雪枝はパックのことを「嫌い」と言いたかったが、おねまの気持ちを察して「苦手」程度に留めておいた。
「あまり詳しく聞いたわけじゃないけど、離婚したことがあるらしいわ。きっと寂しいから人に絡みたくなるのね」
おねまは自分の話に納得するように軽く頷いた。
「それにしても、おねまは大したものね。ひとことでパックを家に帰してしまったんだから。やっぱりお客様商売がむいているのね。私には無理だわ」
雪枝は首を横に振った。
「違うのよ、ユキちゃん。私はパックのボスのハリーにコネがあるの。パックはハリーに言いつけられるのがこわいのよ」
「え?ハリー?」
「ええ、ハリー・カーン。ニューズウィーク本社の外信部長よ。政界の大物にもコネがあるらしいわ」
おねまは「海の向こう」を示すように指差しながら答えた。
「ああ、そうなの。だから小犬みたいにおとなしく帰ったのね。でも、おねま、色々なタイプのお客様を相手にできるなんて、やっぱりすごいわ。尊敬しちゃう」
雪枝は改めておねまを見直した。
「いいえ、ユキちゃん、私だってこう見えてお客様を選んでいるのよ。まあ、そこはちょっとしたコツがあるけどね」
「じゃあ、今度ゆっくり教えて。おねま、私、今日はこれで帰るわ。ご馳走様」
雪枝はこれ以上飲むと帰れなくなりそうだったので、切り上げることにした。
「ユキちゃん、また来てね。外まで送るわ」
店の外は身震いするほど寒かったが、おねまは紫色の看板の横に立っていつまでも手を振っていた。
6br;
5、女親分


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