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7、8、「山王ホテル401号室」

第二章

9、「恋文横丁」

 9、「恋文横丁」1947年3月23日(日)

午後2時10分過ぎ、雪枝は渋谷のハチ公前に着いた。生まれつきせっかちな雪枝は遅刻が大嫌いだったが、今日は電車が遅れたのだから仕方がない。
「ああ!いたいた!ヤスさん、こっちよ、こっち」
雪枝はサングラスを外すと手を振った。
「おお!雪枝さん。お久しぶり!」
ヤスもサングラスを外して頭をペコリト下げた。

雪枝に竹田組組長の竹田久子から電話が入ったのは10日ほど前だった。
「ユキちゃん、あなたの英語力を見込んで頼みたいことがあるのよ。渋谷に知り合いに任せている店があってね、聞いたことあるかしら?『恋文横丁』って」
「ええと…道玄坂のあたりでしたっけ?」
雪枝は「恋文横丁」のことを以前誰かが話していたのを思い出した。その一角には手紙や書類を英語に翻訳する代書屋が軒を連ねていると言う話だった。主に日本人の娘が恋人の米軍兵士に出す手紙を代書することが多いので別名「恋文横丁」と呼ばれているのだ。兵士達は転属や帰国が多く、せっかく結ばれた二人の仲が引き裂かれるケースも珍しくない。運の良い娘は正式に結婚して連れて行ってもらえるが、多くは離れ離れになってしまい、その悲痛な思いを一通の手紙に託すのだ。時には妊娠したまま置き去りにされることも珍しくなかった。
久子はそのような代書の仕事を雪枝に手伝ってもらいたいというのだ。
「もちろん、お代は払うわ。やっぱり女性の気持ちを伝えるのは女性に限るし、ユキちゃんの英語は本場仕込みだからレベルが違うでしょ?」
雪枝は以前から心のどこかで久子に憧れる気持ちがあった。もちろん誰にも言えないが…ヤクザの女親分に憧れている…そんなことは言えるはずがない。
しかし、そんな憧れの久子が自分に仕事を頼んできてくれたことが嬉しかった。
「久子姐さん、喜んでやらせていただきます。で、私、どうすればよろしいかしら?」
「渋谷まで出て来てくれる?でもね、ユキちゃん、悪いけど私は行けないのよ。渋谷は今ちょっとまずくてね。だからうちのヤスに案内させるわ。次の日曜日2時にハチ公のところまで来れる?」
ヤスは竹田組の若頭でこれまでに数回会ったことがあった。彼なら安心だ。雪枝は心が弾むのを感じていた。

日曜日の午後のせいか、ハチ公前は待ち合わせの人たちでごった返していた。
「じゃあ、雪枝さん、行きましょうか?」
ヤスは道玄坂の方を指差した。ヤスの先導で歩き始めたその時、中年のベレー帽をかぶった男が近寄り雪枝に話しかけて来た。大きなカメラを首からぶら下げている。
「いかがですか?ハチ公をバックにお写真。後で郵送しますよ。記念に一枚!どうですか?」
「え?写真?結構です。私、急いでおりますので、失礼!」
雪枝は前に立ちはだかる男の身体を手で払いのけようとした。
すると、数歩前を歩いていたヤスが振り向きざま大声で怒鳴った。
「おい!この野郎!誰に向かってモノ言ってんだ!お前はその辺の田舎モンをカモにしてりゃいいんだよ!さっさと向こうに行け!」
「ひぃ!」
そのベレー帽の中年男はカメラを大事そうに抱えると転げるように走り去って行った。
「雪枝さん、すまない。こんなところで待ち合わせちまって…。ほんとにあいつ等と来たら…」
ヤスは苦虫でも噛み潰したような顔で煙草をくわえた。
「ねえ、ヤスさん。何なんですか?あのカメラマンみたいな人」
雪枝は怖いと言うよりも好奇心いっぱいの表情でヤスに尋ねた。
「何?ってねぇ、まあ、言っちゃえば詐欺みたいなもんすけどね。早い話、写真を撮って、後から金を巻き上げようっていうわけですよ。フィルム代だの現像代だのって。まあ、あいつらも必死で生きてるんでね、許してやってください」
「まあ、そうだったの」
そんなことをして生きている人たちがいる…雪枝はまたひとつ知らない世界を垣間見たのだった。

道玄坂の中ほど、金物屋手前の路地を左に入ると、そこにはありとあらゆる店が並んでいた。和服や洋服の古着屋、靴屋、カバン屋、帽子屋、雑貨屋、金物屋、古道具屋。どれも間口2メートルに満たない小さな店だ。そしてさらに奥の方に進んで行くと「代書」「タイプ」「翻訳」「通訳」などの看板が目立ち始めた。
「ここなんすけどね」
ヤスが一軒の店の前で立ち止まった。入り口の上の看板には白地に青いペンキで「代書 キーウェスト商会」と書いてある。そして壁には「英文、手紙書きます」と大きな字で張り紙がしてあった。青いカーテンをくぐって店に入ると手前に青い木のベンチ、そしてその奥にはタイプライターの乗った大きなデスクがあった。
「おい、横山、俺だ。ヤスだよ」
ヤスが声をかけるとメガネをかけた小柄な男が奥から出て来た。少し足を引きずっている。
「おお、ヤスさん!久しぶり。姐さんは元気かい?」
その少し禿げかかった中年の男はポケットから出した布でメガネを拭きながらヤスに尋ねた。
「ああ、元気は元気だが、色々大変でねぇ」
「そうだろうな。まあ、あんなことがあったら普通は寝込んじまうけど、姐さんは気丈だからなぁ。ヤスさん達がしっかり支えてくれてるし…」
その横山という男はしきりに頷きながらヤスと雪枝に椅子を勧めた。
「で、こちらが姐さんのご紹介の方ですか?英語に堪能なお嬢様?」
「そうだよ。雪枝さん、こいつはここの店長の横山。最近手紙の依頼が増えて一人じゃさばき切れないらしい。おい、灰皿!」
横山はあわてて灰皿を持って来た。
「こんにちは。初めまして。上松雪枝です。横山さんは英語をどこでお勉強なさったんですか?」
雪枝は挨拶しながら店の中を観察した。狭い店だがきちんと片付いており、ショーケースの中には見本の英文の手紙が張り付けてある。そして奥のデスクの上のタイプライターはロイヤル社製。雪枝が使っているのと同じ型だった。
横山は低い声で語り始めた。
「ええ、大学の英米文科にいたんですけどね、もともと本が好きで翻訳家になりたかったんですよ。そこへ、あの戦争だ。僕は戦争なんか行きたかなかったんだが、ニューギニアに送られて散々な目にあった。見てくださいよ。この足。片輪になっちまって…」
足を引きずっていたのは戦争で怪我をしたのか…しかし、今、横山からその時の話を聞いたところでどうなるわけでもない。雪枝は話題を変えた。
「ところで横山さんはヘミングウェイがお好きなんですか?」
「え!雪枝さん、わかりますか?うれしいなぁ。どうしてそう思うんです?」
横山は急に身を乗り出した。
雪枝は人差し指を天井に向けて言った。
「だってお店の名前がキーウェスト商会でしょ?まず、これでピンと来たわ。それからロイヤルのタイプライター。ヘミングウェイのお気に入りじゃないですか」
それを聞くと横山は目を輝かせて言った。
「いやぁ素晴らしい。そこまでわかってくれるとは。いやね、僕もヘミングウェイみたいに立ったままタイプを叩いてみたんですけどね、ダメでしたね。多分タッパが足りないせいか」
「まあ、横山さん、面白い方ねぇ。で、六本指の猫はどこにいるんですか?」
「まさか!そこまでは真似できませんよ…わははは」
横山は大笑いしてヤスに言った。
「ヤスさん、姐さんに言っといてくださいよ。雪枝さんは素晴らしい!横山、感謝感激ですって」

その夜、雪枝の姿が霞町の中華料理店にあった。テーブルの向かい側にはヘンリーがいる。
「でね、話が終わって私がヤスさんとその店を出た時、見たのよ。斜め向かいの店にあのジミー・コサカがいたのよ。絶対間違いないわ。向こうは夢中でタイプライターを叩いていたから私には気付かなかったけど」
「うむ。ユキが言うなら信じるが…と言うことはジミーはあの時、死んでいなかったということになるな。しかし、そんなことがあるんだろうか」
ヘンリーは氷砂糖の入った紹興酒をグビっと飲むと首を傾げた。
「ありえるわよ。瀕死の重傷だったけど助かったかも知れないでしょう?」
雪枝は何があったかは別として、とにかく「生きているジミー・コサカを見た」という事実だけは絶対に自信があった。
「となると、また厄介なことになるな。ディックの店が狙われるかも知れないし、チーフだって危ない。一度誰かに調べさせよう。で、その代書屋の名前は?」
「ジェームス商会って言う看板だったわ。ジェームスってジミーのことじゃない。間違いないわよ」
確かにジミーの正式名はジェームスだからわかりやすい。しかし、そんなに単純な名前を付けるだろうか?ヘンリーは考え事をしながら揚げ立ての春巻きをかじった。
「あちち!」
「あら、ヘンリー、大丈夫?熱かったでしょ。わかったわ。もうジミーの話はしない。もっと楽しいことを話しましょう。せっかくの私の誕生日のディナーですものね」
雪枝はこの大切な二人の時間が壊れることが怖かった。明日は雪枝の27歳の誕生日だった。


10、「ジェームス商会」


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