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12、「箱根」

第二章

13、「日比谷」

26)
 13、「日比谷」1947年4月14日(月)

雪枝が帝国ホテルに着いたのは12時20分過ぎだった。少し早めにオフィスを出て役所に書類を届け郵便局に寄って、意外とすんなり用事が済んでしまったので少し早いとは思いながらも待ち合わせ場所であるホテルに向かったのだ。
雪枝はせっかちだった。大体の場合待ち合わせ時間よりも早く行く。相手を待たせるくらいだったら待つ方が数倍マシと考えていた。だから時間にだらしない人は男女を問わず嫌い…というよりも信用できないと考えていた。
12時30分きっかりに父はロビーに姿を見せた。茶色のソフトハットにベージュのバーバリーのトレンチコート。父はそれほど大柄ではなかったが背筋を伸ばして歩く姿はロビーでも一際目立っていた。
「待ったかい?」
「いいえ。用が意外と早く済んだので10分ほど早めに来ていたけど」
「そうかい。じゃあお昼は洋食を食べよう。一応予約がしてあるんだ」
「うわぁ。お父様と二人きりでお食事するの、久しぶりね」
雪枝は娘時代に戻ったみたいにはしゃいでいた。
二人はホテルを出てから宝塚劇場…いや、今はアーニー・パイル劇場として
進駐軍専用になっている建物沿いに歩いた。
「アーニー・パイルを知っているかい?」
「いいえ。アメリカの俳優か何か?」
「いや、戦時中に沖縄で戦死した従軍記者だよ」
父は物知りだった。
「ええ?そうだったの。よほど有名な人だったのね」
「ああ、ピューリッツァー賞も取ったことがある」
「その名前を劇場に付けるっていうことは余程人気があるのね」
「まあ、政治的な意味もあるだろうけどね。さあ、ここだ。着いたよ」
日比谷劇場の角から二件目のビルの前で父は立ち止まった。
その店は有楽町の駅からもそれほど離れていなかったが、全く目立たないレストランだった。レンガの壁で中はよく見えない。小さな黒い看板が下がっており白い文字で「喜望峰」と書いてあった。
「ええ?こんなに地味でやって行けるの?」
「ああ、ここは以前氷川丸の厨房のチーフだった前田が開いた店で、予約客だけしか受けないんだ」
「へえ、そうなの…」

店の中は思ったよりも広く、ピアノの音が空気のように流れている。ワインレッドのカーペットと船や海の写真が飾られた漆喰の壁。オープンして日が浅いにもかかわらず、もうずっと前から営業しているかのような落ち着いた風格が漂っていた。
「いらっしゃいませ、上松様。こちらでございます」
受付の黒いスーツの男性が奥の個室へと案内してくれた。
「まあ、個室なの?素敵!」
雪枝は久しぶりに気持ちが高揚していた。
その個室は船室を模してあり壁に丸い窓があった。そして窓の向こうには海の写真が飾ってあった。
「何だか懐かしい雰囲気ね。氷川丸を思い出すわ。」
雪枝と両親は戦前、氷川丸でアメリカに渡ったのだ。10日程の船旅だったが、雪枝にとっては忘れられない思い出だった。
「そうだね。ずいぶん昔のことのような気がする」
二人は思い出の片鱗を探すかのように室内を見回した。完ぺきに船室が再現されている。この場所に足りないのは潮風の香りだけだった。
ウェイターが恭しく入って来た。
「お飲物はいかがいたしますか?後でチーフの前田がご挨拶に参ります」

二人は赤ワインをオーダーし乾杯した。
「で、その芦田について聞きたいという事だったね。一体どういう訳だい?」
雪枝は箱根でその芦田という男とおねまが親しげにしていたことを話した。
「そうか。それなら今日聞いたことは菊子さんには内緒にしておいた方が良いだろうね」
菊子とはおねまの本名だった。もしかしたらおねまは芦田の過去を良く知らない可能性があるので、迂闊に話さない方が良いのは雪枝も同意見だった。
「雪枝は前の商工大臣だった岸さんを知っているかい?」
「ええ。今、巣鴨プリズンに入っている人でしょ?」
「そう。芦田は岸さんが満州にいた時の部下だった男だ。僕が新京に行った時は、もう岸さんは内地に戻った後だったが芦田はその後もずっと満州に残り、岸さんの後を継いだ古海の片腕として仕切っていたんだ」
「え?仕切っていたって?何を担当していたの?」
雪枝の父と母が戦時中に満州に渡った頃、雪枝は神奈川県の片瀬に疎開しており、満州などは遠くの他人事だったので何も知らなかった。
「まあ表向きは総務庁の役人だから経済政策や予算、人事などさ」
「それが表の仕事ということは裏もあったのね」
その時ノックの音が聞こえた。
「お料理をお持ちしました」
ビーフシチューとパンが運ばれて来た。おいしそうな匂いが部屋を満たす。
「あら、こんなにお肉がいっぱい。すごい!」
「うん、ここは特別な仕入れルートがあるんだよ。ただ残念ながらステーキに向くような肉はまだなかなか手に入らないが」
「充分よ。ああ!おいしい。このソース!お肉も柔らかく煮てあって」
雪枝はしばし無言でシチューを食べ続けた。
「気に入ったようで良かった。…でね、僕が新京に着いた頃は気付かなかったんだが、彼らは阿片の密売をしていたんだよ」
「え?阿片ってオピウムよね?麻薬でしょ?役人が麻薬を売ってたの」
雪枝の手が止まった。
「もちろん、秘密のルートだ。知ってるかい?満州では阿片を製造するためのケシの栽培も行っていたんだ。一応、名目上は医薬品の原料という事になっていたがねぇ…」
父は食後のコーヒーを飲みながらひとつひとつ噛み締めるように語った。
「当時は金の為なら何でもやる連中がわんさかいたんだ。日本人でも中国人や朝鮮人でもね。大陸浪人だの匪賊だの」
「じゃあ、その阿片は日本にも入って来ていたわけ?」
雪枝はあまりの意外な話に身を乗り出していた。
「いや、さすがに内地には持ち込んでいなかったと思う。満州以外では主に上海や香港辺りで売りさばいていたはずだ。ええ…と何と言ったかな…あの男。そうだ!里見だ!里見甫!」

里見甫(さとみはじめ)(1896〜1965)は「阿片王」とも言われた男である。元々は大陸を舞台にジャーナリストとして活動していたが次第に日中双方の人脈を築くようになる。そして1931年9月、満州事変が勃発すると活動の場を満州に移し関東軍の指揮下、甘粕正彦と共に諜報・宣伝活動を行った。その後1937年11月、上海に居を移すと中国の地下人脈を使い阿片の密売を開始した。その莫大な利益は関東軍の軍資金・活動資金になったばかりでなく一部の官僚や軍人たちの懐を潤すことにもなっていた。

「じゃあ、その里見は大金持ちになったのね?アメリカのマフィアみたいなものかしら」
雪枝は昔アメリカで見たギャング映画を思い出していた。アル・カポネが活躍していた時代の話だ。
「いや、ちょっと違うね。彼らはギャングではなくれっきとした政府の仕事として活動していたんだ。ダミーの商社を作ってはいたが…つまり合法的な組織だったということだよ。たとえ裏の仕事があったにせよね」
父の説明は実にわかりやすかった。
「じゃあ、その阿片を売ったお金は政治家や軍人に流れていたのね?どうしてみんな黙っていたのかしら」
雪枝にとってみれば納得のいかない話だった。そのような不正行為が堂々と行われていたなんて信じられない…と言うよりも許せない気持ちだった。
「そりゃあ今の世の中から見ればお前のいう事はもっともだ。でもね、当時は軍人が跋扈していた時代なんだよ。そんなことを報道する新聞もなければ調べるような人もいなかった。万が一、いたとしても命がなくなっていただろうね」
「でも、お父様は当時から知っていたんでしょう?何とかならなかったの?」
雪枝は父を責めるつもりはなかったが、つい詰問するような口調になってしまった。
「ああ、もちろん我々の間では公然の秘密だったよ。しかし、あの頃は軍や政府のやり方に異を唱えるという事は命がけだったんだ。満州でも役人の後ろにはいつも軍人たちがいたし、憲兵や特高がいつも目を光らせていた。今の日本は確かにアメリカに占領されている情けない状態だが、こんなに自由にものを言える雰囲気は昔は味わえなかったんだよ」
雪枝は父が軍人たちを嫌っていたのは知っていたが、その理由は「威張り散らしていたから」だと単純に考えていた。だが、今、このような話を聞くと彼らが心底腐りきった連中だという事が納得できた。
「しかしね、雪枝、これは念のため言っておくが、彼らはまだ滅びてはいない。大物は大体捕まったが、逃げ延びているものもかなりいる。芦田もその一人だ。彼らにはくれぐれも注意することだ。だから、今日聞いた話は無闇に人に話してはダメだよ」
雪枝は今の話をヘンリーにうっかり喋ってしまいそうな自分を戒めた。あるいは雪枝が話すまでもなくGHQは阿片の密売のことなどとっくにつかんでいるのかも知れない。彼らにしてみれば阿片の密売など、捕虜の虐待や住民の虐殺などの戦争犯罪に比べれば些細なことなのだろう。だからあまり話題には上らないのに違いない。いずれにせよ、雪枝はこの話は自分の胸にしっかりとしまっておくことを決心した。

当時のGHQの資料によれば「阿片売買」を罪に問う意思は皆無だったようだ。「阿片王:里見甫」のみならず、昭和通商という商社を隠れ蓑にして大量の阿片を動かしていた児玉誉士夫に対しても戦争犯罪に問うことはなかった。なぜなら「阿片売買ルート」を辿って行けば味方である中国の国民党や蒋介石に突き当たる。そしてさらに遡れば「阿片売買による搾取」のシステムを考え出したイギリス人たちの罪を問わなければならなくなる。これはアメリカにとって重要な同盟国であるイギリスを貶めることになるわけで、絶対に避けたいことであっただろう。そして、きっと日本陸軍も中国国民党も「阿片を資金源にする手法」は「イギリス人達から学んだ」と反論するに違いない。


14、「ライ麦パン」


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