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13、「日比谷」

第二章

14、「ライ麦パン」

27)
 14、「ライ麦パン」1947年5月16日(金)

午後六時、新橋のバー鹿鳴館に開店と同時に4人の客が入って来た。
「あら、田村さん、磯崎さん、随分早いわね」
ママの菊子がうれしそうに出迎えた。(菊子は「おねま」の本名である)
田村と磯崎は二人とも先日の雪枝の誕生会にも来ていた元外務官僚である。そして、今日は二人の外国人…金髪の女性と栗色の髪の男性を伴っていた。金髪の女性は年の頃は30代後半。180cm近い上背で、濃紺のスーツが白い肌の色を引き立てていた。しかし整った顔の…その青い瞳には不安の陰りがあった。栗色の髪の男性は女性より若く20代後半だろうか。中肉中背、口ひげを蓄え茶色のチョークストライプの三つ揃いを着ていた。そして驚いたことに流暢な日本語を喋っていた。
「おお!田村さん、素晴らしい店ですね。ママさんもお美しい!」
「こらこらハンスくん、この菊子ママを口説くのは十年早いぞ」
田村が笑いながら窘めるとハンスと呼ばれた青年はペコリと頭を下げて謝った。
「菊子ママさん、初めまして。ハンス・ゼムラーと申します。失礼をお許しください」
「いいえ、ハンスさん、菊子です。よろしくね。さあ皆さん、こちらにどうぞ」
4人は奥の席に案内された。
「皆さんはビールがよろしいかしら?」
おねまは飲み物とピーナッツのつまみを用意すると、さっさとキッチンに入ってしまった。まだ料理の仕込みが終わっていなかったからだ。
ハンスは田村と磯崎に金髪の女性を紹介した。
「こちらはエリゼ・ヤンセンさん。日本語はあまり話せませんので僕が通訳をしましょうか?」
「いや、私のドイツ語で良ければ直接お話ししたい。何かおかしかったらハンス君が補ってくれ」
「はい、わかりました」
ハンスはエリゼにドイツ語で説明すると彼女は笑顔で田村と磯崎に日本語で挨拶した。
「ヨロシコネガイシマス」
「それでは、まずエリゼさん、あなたのストーリーを聞かせてください」
田村は手帳を広げメモを取る用意をした。
エリゼのストーリーは以下の通りだった。
エリゼは1908年8月、ブレーメンの裕福な貿易商の家に生まれた。母親はオランダ人だった。21歳の時に5歳年上のオットー・ヤンセンと結婚。オットーはロイヤルダッチシェル社に勤める石油技師だった。やがて長女と次女が生まれ1936年、夫は当時オランダ領だったインドネシアに出向を命じられ、エリゼと二人の娘も一緒に家族四人はスラバヤで暮らすことになった。生活は豊かで召使が四人もいる豪邸に住んでいたが1940年5月、ドイツがオランダに攻め込むとオランダ人たちはドイツ人を次々と捕え始めた。エリゼと二人の娘は夫と引き離され、バンダエ・ビロエの収容所に入れられていたが、1年ほど後、日本に向かう船に乗せられ神戸にたどり着いたのだった。
一同は真剣な表情でその話を耳を傾け、エリゼが話し終わると田村が口を開いた。
「収容所での生活はさぞ大変だったでしょうね?」
するとエリゼは当時を思い出したのかハンカチで目頭を押さえながら語った。
「収容所長の男が私たちを特別扱いしようとしたんです。何か下心があるとは思いました。最初は私が狙いだと思ったんですが、彼の狙いが私の11歳の娘だと分かった時は不安で寝られませんでした。彼の誘いに乗ってひどい目に会った少女の話も聞きました。あの後、日本軍が攻め込んだと聞いてあの男が殺されていればいいと本心から思いました」
「戦争は人間の最も醜い面が出ますからね…」
磯崎も神妙な表情で頷いた。
「では神戸に着いた後、河口湖の方に移られたのはいつ頃なんですか?」
田村は熱心にメモを取りながら質問した。
「はい、神戸に着いてすぐに鉄道で東京に送られました。1941年の7月中旬です。東京ではドイツ大使館が一軒家を手配してくれまして…はい、南麻布の大使館から5分ほどの場所です。河口湖に移ったのは1944年の夏です。米軍の空襲で大使館が焼けてしまったので河口湖の富士ビューホテルに臨時の大使館を置いたのです」
エリゼは時々指折り数えながら頭の中の過去のページを捲っていた。
「すると、エリゼさんが大使館の厨房で働いていたのは東京にいらっしゃった頃ですか?」
田村が尋ねた。
「はい、そしてその後、河口湖に移ってからも私は毎日キッチンに立っていました。限られた材料でしたが、何とか少しでもおいしい食事を作ろうと色々と工夫を凝らしました」
するとハンスが言った。
「エリゼさんの焼くパンは最高ですよ。今日も見本を持って来ていただきました」
「おお、それはありがたい。さっそく試食しましょう」
田村と磯崎はうれしそうにパンの包みを受け取り、おねまに頼んで切ってもらった。
「おお、懐かしい!これぞ本当のドイツの味だ!」
田村は感動して声を上げた。磯崎とハンスも夢中で食べている。おねまも一切れつまんだ。
「あら、これ黒パンでしょ?ドイツの方ってこういうパンの方がお好きなの?」
するとハンスが答えた。
「はい、これは伝統的なライ麦パンです。日本のパンは柔らか過ぎてドイツ人の口には合わないんですよ。いわゆる英国風の食パンというやつですがね」
「そうそう!これとうまいシンケン(ハム)さえあればドイツ人は大満足さ」
田村もうなずいた。
「おっと、田村さん、黒パンとシンケンやヴルスト(ソーセージ)だけじゃ足りない。ビールを忘れたら困るよ」
ハンスがいうと、一同笑いながら「プロースト(乾杯)!」とビールのグラスを合わせた。
その時、丁度雪枝が入って来た。
「あら、ユキちゃん、一人?」
「うん。ちょうど近くで用があったんで…ああ!田村さんもいらっしゃるの?あら磯崎さんも…こんばんは」
「おお、雪枝さん、お誕生日以来ですね。お元気そうで何よりです。いかがですか、こちらでご一緒しませんか?」
田村も嬉しそうに席を勧めた。
「今、ちょうどパンの試食をしていたんですよ。雪枝さんもいかがですか?」
「ああ!懐かしい。ニューヨークでよく食べたわ。いただきます」
雪枝はライ麦パンを一切れつまむと頷きながら噛み締めた。
「そうそう!この味…ちょっと酸っぱいのがいいのよね」
「おお、よくおわかりですね」
ハンスが思わず話しかけると、田村が雪枝にハンスを紹介した。
「こちら、ハンスさんとエリゼさん。お二人ともドイツの方です」
そして、エリゼとハンスにドイツ語で雪枝を紹介した。
「雪枝です。残念ながらドイツ語はできませんが、よろしくお願いしますね」
(ハンスさん、素敵な方…でも彼はおねまに気があるみたいね。エリゼさんは綺麗だけど何だか寂しそう)
雪枝の勘は鋭かった。
「じゃあ、田村さんたちのレストランでこちらの皆さんもお仕事をなさるんですの?」
雪枝が尋ねると田村が応じた。
「ハンス君には食品の仕入れ関係で色々手伝っていただくつもりです。で、エリゼさんには我々も今日、初めてお会いしたばかりなので、まだ決定ではないんですが、ぜひお店の厨房の仕事をお願いしたいと思っています。肝心のお給料や細かい話は済んでおりませんが…」
するとおねまがエリゼの方を見て言った。
「あら、そうなの。美しい上にお料理も上手なんて、羨ましいわ。私、料理があまり得意でなくて…」
するとハンスが言った。
「ママさんは美しい上にこんな立派なお店があるじゃないですか。私は羨ましいです」
「ありがとう!ハンスさん。ビール、もう一杯いかが?」
おねまはすっかりハンスが気に入ったようで、ウキウキとした表情でビールを勧めた。
(あらあら…おねまもハンスに気があるみたいね…ふふ)雪枝は思わず微笑んだ。
時刻は7時を過ぎ、店には数組の客が入って賑わい始めていた。
「ところで、エリゼさん、旦那様の消息は未だに不明なんですか?」
磯崎がエリゼに尋ねた。触れにくい話だったが、エリゼと今後一緒に仕事をして行くなら避けては通れない問題だった。
エリゼは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、意を決したように話し始めた。
「はい、私も夫の消息については何度も大使館に問い合わせました。そして戦争が終わってからはオランダ政府にも何度か手紙を送りました。夫は戦時中にインドネシアからインドに送られたところまではわかったのですが…未だに生死は不明なんです。今はもう半分は諦めていますが…」
エリゼはここまで一気に話すとグッとビールをあおった。
するとハンスが尋ねた。
「エリゼさんのご主人はナチの党員でしたか?」
「いいえ。主人はむしろヒトラーには批判的でした。いえ、けっして共産党員ではありませんわ。ユダヤ人たちに同情的だったということです。ですから、インドネシアに出向できたことも喜んでいたんです。ドイツ国内はナチス一色に染まっていましたから」
ハンスはそれを聞くと顎に手をやり考えるようなポーズをとった。
「なるほど。だとすると終戦後も拘束されている可能性は低いですね。私の方でも調べてみましょう」
そのやり取りを聞いていた磯崎はハンスに日本語で尋ねた。
「ハンス君、私はずっとスイスにいたので知らないのだが、戦時中、日本国内のドイツ人社会ではやはりナチスの力は強かったのかい?」
ハンスはナチスが嫌いと見えて顔をしかめるとこう言った。
「いやあ、かなりかぶれている人たちはいましたね。ナチス式の敬礼を強制したり子供たちをヒトラー・ユーゲント式に教育したり、特に大使のスターマーと武官のマイジンガー大佐はひどかったですよ。ドイツが降伏した後もナチス式を改めようとせずに…まあ、結局二人とも米軍に逮捕されましたけどね」
ハンスはこう言うと話の内容を掻い摘んでエリゼにドイツ語で説明した。
それを聞くとエリゼもナチスは嫌いだったと見えてドイツ語でまくし立てた。
「彼らは娘たちにユダヤ人の悪口を吹き込んだり総統への服従の言葉を強制したり、私は我慢がならなかったわ」
「本当に今思うと悪夢のような時代でしたね」
ハンスが同意すると田村と磯崎も口々に同意の言葉を述べた。そして田村は改めてグラスを掲げるとこう言った。
「悪夢の時代は去った。そして生き残った我々が手を携えて新しい世界を作って行くことを祝したいと思う。プロースト!」
5人があまりに大きな声で乾杯したので、他の客たちは呆気に取られていた。


15、「ホットドッグ」


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